9.11から何が価値創造できるのか..
芸術というのは、破壊することの異名だと考えている芸術家は多い。それは、新しく創作を始めるときは、既存の価値観を破棄しなければ価値創造ができないからだ。あのツインタワーの崩壊ほど価値観を崩しものは近年にはなかった。いますべての芸術家たちは、何を壊して前に進んだら良いのか分からなくなってしまっているようにもみえる.........

間断なき前進を運命づけられている芸術家たちは、今、何に依って立ち上がればよいのか? それは、人のこころに潜む悪魔と戦う決意をすることだと思う。ここではテロリズムのいい訳のできない「欠落」を考察してみたい。

昨日は9・11米国同時多発テロからちょうど1周年。米国だけでなく、世界各地で追悼集会が行なわれました。そこで私が訴えたいのは、「テロは許せない。しかし、テロは弱者の最終兵器といわれるように、社会が弱者と強者に差別する構造が存在する限り、テロをなくすことはできない。そこで、私はテロリズムには「3つの欠落」がある、という考えを中心にまとめました。3つの欠落とは、
「1.生命観の欠落、2.人間の欠落、3.目的の欠落」です。

1)
生命摂理は自殺を前提にしていません。人間以外のほとんどの動物は自殺をしないと言われています。しかし、自爆テロは実行者の自殺が前提であり、根本から生命摂理に反した行為です。そうした行為であればこそ、またその攻撃を受ける側も防ぐのが非常に困難になります。その困難性の過剰意識は、潜在的に自分達をテロ攻撃する可能性のある相手を先に倒そうという衝動をおこさせるかもしれません。最近の米国の動きの一部にはこのような傾向があるようで、心配です。生命軽視の相手と同じ土俵に乗ってこちらも生命軽視になってしまってはいけない、と私は思います。

2)
人間の欠落とは、テロ行為の中には、「ひとりの血の通った、さまざまな人生をもつ人間」というものが全く欠落しています。破壊された世界貿易センターは、抽象的な文明の象徴などではなく、まず何よりも家族をもった、夢や希望をもった、私達と変わらない人々が働いていた場所でした。近代の電子戦争も同様かもしれませんが、自分と同じ人間への共感がおそろしいほどに存在しない世界でしか、起こりえないことが起こりました。ありきたりかもしれませんが、「人間」ひとりの人間がどれほど大切な存在か、その基本の揺らぎを正していかなければならないと思います。

3)
9・11テロは犯行声明が出ていません。古来テロは手段ではあっても目的ではありません。何かの目的を達成するために選ばれる最悪の手段としてテロが使用されるのが通常です。しかし、あのテロは、明確な目的がいまだに実はわかりません。これも1つの推測に過ぎませんが、一番ストレートな結論はあの無差別な破壊行為自体が目的だったと考えられます。テロは、戦争に関わる国際法でも、中世から正当な攻撃手段として認められていません。目的が正しいかどうか以前に、テロはその非道さから否定されてきたのです。当然です。しかし、今回はその非道さを具現化すること自体が目的だったかもしれません。そこには、悪魔的な狂気の影を感じざるをえません。テロという手段が目的化する―これほど恐ろしい時代はありません。

ある国が武力行使を正当にするためには要件があります。その要件を満たしているとはいえないのが、今取りざたされているイラク攻撃です。まだ、何もおきていませんし憶測で決め付けるのはよくありませんが、米国政府が国際世論、いや国内世論さえも無視して他国を攻撃することを本気で考えているとしたら、冷戦の呪縛から逃れたばかりの国際社会の行く末に暗雲がたれこめることは間違いないと思います。